平塚らいてう
ひらつからいちょう
婦人参政権獲得運動など、婦人運動をリードした思想家、フェミニスト。彼女が残した言葉『元始、女性は太陽であった』は、当時の婦人運動を象徴するものとして、特に有名である。
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年表、功績
活躍の軌跡。『人生の残り時間』にも注目してください。意外な発見があります。
年月日 | 年齢(人生の残り時間) | 内容 |
---|---|---|
1886年02月10日 | 0歳 (あと85年) | 平塚らいてう、生まれる |
1971年05月24日 | 85歳 | 平塚らいてう、胆嚢・胆道癌により死去 |
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エピソード・逸話
知られざる興味深いエピソードの数々。
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名言・最後の言葉
平塚らいてうが語ったといわれる言葉。人柄や当時の心情が見えてきます。
- 「元始、女性は太陽であった」
- 雑誌『青鞜』発刊を祝い、平塚らいてうは文章を贈っている。この有名な一節は文章の表題である。
- 「わたくしは永遠に失望しないでしょう」
- 自伝『元始、女性は太陽であった』より。前文は以下である「途中、どんなに困難に試されることがあろうとも、わたくしは永遠に失望しないでしょう」。
- 「わが生涯の体系を貫徹す」
- 心中未遂で世間を騒がせた『塩原事件』の直前、自室の引出しに置かれていた遺書めいた文章より。
- 「隠されてしまった我が太陽をいまや取戻さねばならぬ」
- 有名な『元始、女性は太陽であった』という一節ではじまる、文芸誌『青鞜』に寄稿した文章の一節。前後は以下。「元始、女性は太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く。病人のような蒼白い顔の月である。私共は隠されてしまった我が太陽をいまや取戻さねばならぬ」。
- 「烈しく欲求することは事実を産むもっとも確実な真原因である」
- 有名な『元始、女性は太陽であった』という一節ではじまる、文芸誌『青鞜』に寄稿した文章の締めくくり。
子孫・子ども
偉人の血を受け継いだ方々を紹介します
- 奥村敦史(おくむらあつし)
- 平塚らいてうの息子(長男)にあたる。
- 築添曙生(ちくぞえあけみ)
- 平塚らいてうの娘(長女)にあたる。
- 奥村直史(おくむらなおふみ)
- 平塚らいてうの孫(長男・敦史の長男)にあたる。心理療法士。東洋学園大学非常勤講師。『平塚らいてう 孫が語る素顔』を記す。
- 築添正生(ちくぞえまさみ)
- 平塚らいてうの孫(長女・曙生の息子)にあたる。作家。遺稿集は『いまそかりし昔』
- 炎美可(ほのおみか)
- 平塚らいてうの孫(長女・曙生の娘)にあたる。日劇ミュージックホールにてヌードダンサーとして活躍。本名は築添美可。