年表、功績
活躍の軌跡。『人生の残り時間』にも注目してください。意外な発見があります。
年月日 | 年齢(人生の残り時間) | 内容 |
---|---|---|
1870年06月17日 | 0歳 (あと74年) | 西田幾多郎、生まれる |
1945年06月07日 | 74歳 | 西田幾多郎、尿毒症により死去 |
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エピソード・逸話
知られざる興味深いエピソードの数々。
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名言・最後の言葉
西田幾多郎が語ったといわれる言葉。人柄や当時の心情が見えてきます。
- 「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾行なり」
- 西田幾多郎の歌碑より。哲学の道から法然院へ道すがらにある。西田が64歳の元旦に詠んだ歌。
- 「愛は知の極点である」
- 書籍『善の研究』より。
- 「死の事実の前には生は泡沫の如くである、死の問題を解決し得て、始めて真に生の意義を悟ることができる」
- 『西田幾多郎随筆集』の『我が子の死』より。
- 「亡き我児の可愛いというのは何の理由もない、ただわけもなく可愛いのである、甘いものは甘い、辛いものは辛いというの外にない」
- 『西田幾多郎随筆集』の『我が子の死』より。
- 「真実の知識は必ず意志の実行を伴わなければならぬ」
- 『善の研究』より。前後は以下。「王陽明が知行同一を主張したように真実の知識は必ず意志の実行を伴わなければならぬ。自分はかく思惟するが、かくは欲せぬというのは未だ真に知らないのである」。
- 「道徳の事は自己の外にある者を求むるのではない、ただ自己にある者を見出すのである」
- 書籍『善の研究』の『完全なる善行』より。
- 「信念というのは伝説や理論に由りて外から与えらるべき者ではない、内より磨き出さるべき者である」
- 書籍『善の研究』の『宗教の本質』より。
- 「我々の人格が失はれ行く過去を掻き集めて現在の一点を突破する所に、真の直観といふものがあるのである」
- 『哲学の根本問題』収録の論文『形而上学序論』より。
- 「運命は必然的自然として我々を限定するのでなく、解くべき課題として我々に与えられるものでなければならない」
- 論文『無の自覚的限定』より。
- 「真の愛というのは何らかの価値のために人を愛するのでなく、人のために人を愛するということでなければならぬ」
- 論文『私と汝』より。
子孫・子ども
偉人の血を受け継いだ方々を紹介します
- 西田謙(にしだけん)
- 西田幾多郎の息子(長男)にあたる。急性腹膜炎により23歳で死去。
- 西田外彦(にしだそとひこ)
- 西田幾多郎の息子(次男)にあたる。物理学者。甲南高等学校(旧制)教授。
- 上田彌生(うえだやよい)
- 西田幾多郎の娘(長女)にあたる。夫は裁判官の上田操。
- 西田幽子(にしだゆうこ)
- 西田幾多郎の娘(次女)にあたる。1902年12月に生まれ1907年1月に夭折。
- 西田静子(にしだしずこ)
- 西田幾多郎の娘(三女)にあたる。カリエスにより結婚はしなかった。父・幾多郎についての随筆をのこす。
- 西田友子(にしだ)
- 西田幾多郎の娘(四女)にあたる。五女・愛子との双子。夫は篆刻、洋画、詩作などで作品を残し「雲道人」と称した小林全鼎。が、すぐに離婚。京大附属病院精神科に7年ほど入院していたが34歳にて死去。
- 西田愛子(にしだ)
- 西田幾多郎の娘(五女)にあたる。四女・友子との双子。生まれた翌月に夭折。
- 金子梅子(かねこうめこ)
- 西田幾多郎の娘(六女)にあたる。夫は哲学者、倫理学者でありヘーゲル研究でしられる金子武蔵。
- 西田幾久彦(にしだきくひこ)
- 西田幾多郎の孫(次男・外彦の長男)にあたる。(財)日本ゴルフ協会理事、元東京銀行常務。正仁親王妃華子の義兄。
- 上田薫(うえだかおる)
- 西田幾多郎の孫(長女・彌生の長男)にあたる。教育学者。東京教育大学教授、立教大学教授、都留文科大学学長。妻は千輪浩の三女・春野。
- 上田久(うえだひさし)
- 西田幾多郎の孫(長女・彌生の次男)にあたる。『祖父西田幾多郎』など、幾多郎に関する文をのこす。
- 上田滋(うえだ)
- 西田幾多郎の孫(長女・彌生の三男)にあたる。
- 上田正(うえだ)
- 西田幾多郎の孫(長女・彌生の四男)にあたる。